天下統一を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して
文禄・慶長の役でも前線で戦った「
武断派」と呼ばれるグループと、行政・経済兵站(へいたん)・宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた「
文治派」(吏僚派)の対立抗争が存在したが、これらの対立は以下のような
豊臣政権そのものの政治的矛盾に端を発するものであった
[笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』『関ヶ原合戦』]。
秀吉は晩年には
五大老と
五奉行の制度を整え、諸大名に実子の
豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて慶長3年(
1598年)8月に
伏見城で死去する。ここで両派の対立は表面化し、また、五大老の徳川家康は、禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切るなど影響力を強める。これに対して、同じく五大老の
前田利家は家康を厳しく糾弾。一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。だが最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名がこぞって徳川邸に参集し、豊臣家内部は早くも分裂の様相を呈し始めていた。