西国三十三箇所 wikipedia|無料辞書
西国三十三箇所(さいごくさんじゅうさんかしょ)または
西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)は、
近畿2府4県と
岐阜県に点在する33か所の
観音霊場の総称
[「三十三箇所」「三十三所」の両様の表記があるが、近世以前にはもっぱら「三十三所」と称されていた。また、「西国」は「さいこく」と清音で読む場合もある。]。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。
「三十三」の数については、『
法華経』「観世音菩薩普門品」所説の、観音菩薩が
衆生を救うとき、33の姿に変化するという信仰に由来すると言われている。西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。
◆ 成立と歴史
◇ 伝承
三十三所巡礼の起源については、
中山寺(二十四番札所)の縁起である『中山寺来由記』、
華厳寺(三十三番札所)の縁起である『谷汲山根元由来記』などに大略次のように記されている。
養老2年(
718年)、大和国の
長谷寺の開基である
徳道上人が62歳のとき、病のために亡くなるが冥土の入口で
閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。上人はこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の
中山寺の石櫃に納めた。そして三十三所巡礼は忘れ去られていった。
徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、
花山法皇(968年 - 1008年)が紀州国の
那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を受ける。そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山
圓教寺の
性空上人の勧めにより、、河内国石川寺(
叡福寺)の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)。
なお、札所寺院のうち、
善峯寺(二十番札所)は法皇没後の長元2年(1029年)創建である。また、花山法皇とともに札所を巡ったとされる仏眼上人は、石川寺の聖徳太子廟の前に忽然と現れたとされる伝説的な僧で、実在が疑問視されている。以上のことから、三十三所巡礼の始祖を徳道上人、中興を花山法皇とする伝承は文字どおりの史実とは考えがたいが、三十三所の札所寺院・堂はいずれも平安時代以前からの由緒を伝える観音信仰の場であった。
◇ 歴史
歴史資料における三十三所巡礼の初出は、近江国
園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』中の「行尊伝」と「覚忠伝」にみられる「観音霊場三十三所巡礼記」である。
天台座主・園城寺長吏を務めた僧・
行尊(1055年 - 1135年)は、正確な年次は不明ながら、三十三所を巡礼している。この時の巡礼は、札所は現代のものと同一だが、回る順番が異なり、第一番は長谷寺であり、第三十三番は
三室戸寺であった。同じく天台座主・園城寺長吏を務めた僧・
覚忠(1118年 - 1177年)は応保元年(1161年)に三十三所を巡礼しており、この時は第一番は現在と同じ
那智山であり、第三十三番は三室戸寺であった。
江戸時代には庶民に観音巡礼が広まり、関東の
坂東三十三箇所や
秩父三十四箇所と併せて
日本百観音と言われるようになった。これにより東国の巡礼者が増え、この上方の観音巡礼が「西国三十三所」と言われるようになり、熊野詣から巡礼を始める人が多かったので第一番が紀伊国那智山の如意輪堂(現・
青岸渡寺)に、東国への帰路に着きやすいということで第三十三番が美濃国の
華厳寺という現在の巡礼順になったと考えられている。江戸時代初期から「巡礼講」が各地で組まれ団体の巡礼が盛んに行われた。地域などから依頼を受けて三十三所を33回巡礼することで満願となる「三十三度行者」と呼ばれる職業的な巡礼者もいた。これら巡礼講や三十三度行者の満願を供養した石碑である「満願供養塔」は日本各地に残っている。
近年、札所寺院の宗派からの独立が著しい。巡礼者の増加に伴い、各寺院の財政が潤っていることを端的に示している。
◆ 巡礼
霊場は一般的に「札所」という。かつての巡礼者が本尊である観音菩薩との結縁を願って、氏名や生国を記した木製や銅製の札を寺院の堂に打ち付けていたことに由来する。 札所では参拝の後、写経とお布施として納経料を納め、納経帳に宝印の印影を授かる。写経の代わりに納経札を納める巡礼者もいる。
巡礼の道中に、開基である徳道上人や再興させた花山法皇のゆかりの寺院が番外霊場として3か所含まれている。そして結願のお礼参りとして、最後に信州の
善光寺に参拝し計37か所を巡礼する。また、
高野山金剛峯寺の奥の院、
比叡山延暦寺の根本中堂、奈良の
東大寺の二月堂、大阪の
四天王寺を番外霊場に含んでいる場合もあり、お礼参りは善光寺を含め5か所の中から一つを選べばよいとする説もある。
第一番から第三十三番までの巡礼道は約1000kmであり
四国八十八箇所の遍路道約1400kmと比較すれば短いが、京都市内をのぞいて札所間の距離が長いため、現在では全行程を歩き巡礼する人はとても少なく、自家用車や公共交通機関を利用する人がほとんどである。1935年3月から1か月間「西国三十三ヶ所札所連合会」が
阪急電鉄とタイアップして「観音霊場西国三十三ヶ所阪急沿線出開扉」を開催した。これには33日間で40万人以上が訪れたと言われている。
[森正人『四国遍路の近現代』創元社]
現在でも鉄道会社やバス会社によって多くの巡礼ツアーが組まれており利用者も多い
[京阪宇治バスでは西国三十三箇所の内数箇所と、番外としてツアーにより近隣の寺院数箇所とを組み合わせた巡礼ツアーを定番コースとして開催している。]。
◆ 西国三十三所札所寺院の一覧