南に
飛騨高地を控え、
小矢部川及び
庄川の
扇状地が発達している。
散居村で有名である。なぜ各家が離れているのかについては諸説ある。「荒れ野の所々に小屋を掛け、用水を引き、開作」と記した古文書が残っている。開作とは開墾、開拓のことで加賀藩では改作とも書かれる。
戦国時代末期から、
江戸時代中期にかけて砺波平野の水田開拓が進んだのは、
加賀藩の様々な奨励策が奏効したと考えられている。中でも「開墾した田畑は藩主に属すが、開墾した百姓にはその田畑を自前で耕作することを許された」ことが住居が散在した大きい要因と考えられている。散居の各家は「カイニョ」と称する
屋敷林を備える。漢字でかくと垣饒(かきにょう)がなまったもので、垣のように饒(めぐ)らせた樹木である。これにはいくつかの目的がある。