権門・勢家ともに『
後漢書』などの
中国古典に由来を持つ言葉であり、
平安時代前期から現れるようになる。
延喜2年
3月13日付
太政官符(すなわち『
延喜の荘園整理令』)に「権門」「多勢之家(勢家)」の言葉が現れている。すなわち諸院諸宮王臣家あるいは五位以上の貴族の意味で用いられた。
摂関政治期に入ると、地方の在地豪族が国司の介入を排除するために権門に土地を荘園として寄進して不輸権・不入権を獲得するようになった(
荘園領主)。特に
藤原北家でも
摂関の地位を占める可能性のある一族に寄進が集中して格差が拡大し、それ以外の貴族が「寒門」として没落するようになった。当時の政治は権門によって運営されていたために、荘園整理などの権門抑制策には消極的であったが、一方で政治的権威の基盤である
太政官-
国衙の支配体制の崩壊も望まれるところではなく、
官物率法の導入などによってその最低限の維持政策は取られ続けていた。