清の父・
政信は本来ならば誠信の後を継ぐはずであったが、
明和8年(
1771年)8月に早世してしまった。このため、同年10月27日清は祖父・誠信の養嗣子となった。安永3年(1774年)4月18日将軍
徳川家治に御目見する。同年12月18日
従五位下壱岐守に叙任する。
安永4年(
1775年)2月16日祖父の隠居により、家督を相続した。誠信までの
松浦氏の当主のほとんどは二字名であったが、有職故実を重んじる清は、代々一字名を特徴としていた祖先・
嵯峨源氏にあやかって再び一字に戻したのだという。ちなみに清以降、現在の松浦氏の当主まで、その名は一字で通されている。同年3月15日藩主として初めて帰国する許可を得る。
さて、清が藩主となった頃、
平戸藩は財政窮乏のために藩政改革の必要性を迫られていた。このため清は、『財政法鑑』や『国用法典』を著わして、財政再建と藩政改革の方針と心構えを定めた。そして経費節減や行政組織の簡素化や効率化、農具・牛馬の貸与制度、身分にとらわれない有能な人材の登用などに務めている。また、
藩校・
維新館を建設して人材の育成に務め、藩政改革の多くに成功を収めた。しかし、藩校を維新館と定めたことから、幕府より「維新とはどういうことだ」と言いがかりをつけられたという。しかし、清の正室の兄は幕府の
老中経験者であったから、清に幕府転覆の意思があったとは考えにくい。どうもこの維新館は、『
詩経』から取った言葉であると言われている。
文化3年(
1806年)、三男・
熈に家督を譲って隠居し、以後は執筆活動に従事する。清は文学者としても秀でており、
文政4年(
1821年)11月の甲子の夜に執筆を開始したということで有名な
江戸時代を代表する随筆集『
甲子夜話』(完本が
平凡社東洋文庫で全20巻)や剣術書『
剣談』(
野村克也の名言とされる「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」はこれが出典で、清本人の発言である)など、多くの重要な著作を残している。特に甲子夜話は正編100巻、続編100巻、三編78巻に及ぶ大規模なものであり、内容は
田沼意次時代から
寛政の改革時代頃にかけての政治、諸大名や
旗本、民衆の暮らしや風俗を知る上で貴重な史料となっている。また、
松平定信とも交友関係があったらしい。
蘭学にも関心があったようで、静山が入手した
地球儀が現在も
松浦史料博物館に保管されている。