桓武平氏・
平貞盛の流れを汲む
平直方の子孫を称し、時方のとき
伊豆介となって伊豆国北条郷(現
静岡県伊豆の国市)に土着し、北条氏を名乗ったという。しかし今日伝わる北条氏系図はいずれも時政以前の世系がまちまちで一致せず、疑点が多い。時政の本拠地である北条の地は、伊豆国田方郡に位置する。「
条」とは、
郡・
郷よりさらに小さい規模の領域を示す単位であり、郡規模あるいはそれ以上の範囲に領域支配を展開する他の東国有力
武士団である
三浦・
千葉・
小山・
秩父などは、どれも何代か前から多くの有力な一族を各地に分派させているが、北条氏にはそうした一族が少しもみられない。そして40歳を越えた
北条時政が、ただ北条四郎と名乗っているのみで、介はもとより、何の官位も持っていなかったのである。それらの点から考えて、北条氏を桓武平氏直方の流れをひく伊豆の大豪族で、他の東国武士団より強い勢力を持っていたとは考えられない。伊豆の在庁官人として北条の地に館をかまえる武士であったが、その規模はけっして大きくなく、伊豆においても中流クラスの存在であったとみられる。
2代執権義時から数代にわたって他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立した。実朝が暗殺されると、義時は京都から
九条頼経を4代将軍に迎え(
摂家将軍)、将軍の地位を名目的なものとし、
後鳥羽上皇の討幕運動である
承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功した。3代執権
北条泰時は
御成敗式目を制定し、幕府の御家人支配をゆるぎないものにした。