元々は、閑院宮家から
聖護院に入寺し出家する予定であったが、
安永8年(
1779年)、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったため、
宮家から新帝を迎えることになった。当時、後継候補者として
伏見宮貞敬親王・
閑院宮美仁親王と美仁親王の弟・祐宮師仁親王の3人がいたが、先帝の遺児・欣子内親王を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち
近衛内前は貞敬親王を、
九条尚実は師仁親王を推薦した。会議の結果、貞敬親王の方が年下で内親王とも年が近いものの、血筋が近い師仁親王が選ばれ、急遽養子として迎えいれられて即位する。なお、この時に先々帝
後桜町上皇は皇嗣継承のために
伏見宮と接触、近衛内前と共に貞敬親王を推薦したが、貞敬親王が皇位に就く事は無かった。