しかし、韓国の学者を中心に『日本書紀』の描く任那日本府像をそのまま史実として捉える事はできないと否定する意見もあり、日本の学者の中からも「任那日本府」の名称は『百済本紀』の編纂者がヤマト王権に迎合するために用いたものであり、伽耶諸国と任那日本府とを同一視することは誤りとする説も出されている
[井上秀雄によれば、任那日本府とは、『日本書紀』が引用する『百済本紀』において見られる呼称であり、6世紀末の百済が高句麗・新羅に対抗するために倭国(ヤマト王権)を懐柔しようとして迎合的に用いたものであり、『魏志』(『三国志』)韓伝において朝鮮半島南部の諸国を表していた「倭」と、日本列島の倭人の政権(ヤマト王権、のちに日本の国号を用いる)とを結びつけて、ヤマト王権の勢力が早くから朝鮮半島南部に及んでいたかのような印象を与えるに過ぎず、実際の『百済本紀』の記述では、任那日本府とヤマト王権とは直接的には何の関係も持たないことが読み取れるという。(→井上2004 pp.106-107.)]。また、
任那とは伽耶諸国の任那加羅(金官加羅・駕洛国)の勢力範囲を指し、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結び、倭国によって軍事を主とする外交機関(後に「任那日本府」と呼ばれた)が設置されていたとする説もある
[吉田孝によれば、「任那」とは、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国(ヤマト王権)と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合で政治的領域を指し、地理的領域である伽耶地域とは重なり合うが一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後に「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は任那加羅が倭人を移住させた地域であったとした。また、532年の任那加羅滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったという(→吉田1997 pp.74-78.)。]。
朝鮮半島の諸国の中では距離的に日本に最も近いこともあり、日本とは古くから交流があった。古代日本語においては「韓」の訓として「から」を用い、また
唐の事を「おおから」と呼んだ事から、外国を意味する普通名詞としても「から」の言葉が使われるようになった。奈良時代より朝鮮半島との関係が絶たれ唐が唯一の外交相手国となったため、
平安時代以降は、もっぱら「唐」の訓として「から」が使用されるようになった。
室町時代後期に
南蛮貿易を介して新たな文物が日本に来るようになってからも、「
からいも」などのように外国一般を指す語として使われており、現在に至っている。