1973年には
渡辺美智雄、
石原慎太郎らと「
青嵐会」を結成、若手タカ派として名を売った。
福田赳夫に私淑し、後年は、福田と政治行動を共にする。1977年福田が総理総裁時代の自民党国民運動本部長として、かねてから保守派の活動通じ親交有った
黛敏郎に新たに創設された
党友組織
自由国民会議初代代表就任要請し受諾された。
1978年の
自民党総裁選で福田が
大平正芳に予備選で敗れた際は、本選挙で断固戦うことを主張し、福田内閣総辞職の際には署名を拒否する。
1979年には石原、
長谷川四郎、
松沢雄蔵、
長谷川峻らを結集して、
自由革新同友会(事実上の中川派)を結成。
1982年、
鈴木善幸の後継を狙い、自民党総裁選にいち早く名乗りを上げるも予備選で最下位に敗れた。この時、田中角栄を訪ね「
池の鯉は跳ねちゃ駄目か」と出馬について伺いをたてるも「
跳ねたはいいが戻れなければ日干しだ」と諭されたことは有名。国会の敷地内で立ち小便しているところを写真週刊誌に撮影されたことがある。