尊氏の命により、憲顕は戦死した長兄・上杉憲藤の後任として
鎌倉府(
足利義詮が首長)の執事に任じられる。同じく
斯波義長の後任として執事に命ぜられた
高師冬が
常陸国の南朝勢と戦ったのに対し、
1341年(暦応4年)に守護国となった
越後国には憲顕配下で守護代の
長尾景忠が入国し、その平定に尽力した。
1349年(
貞和5年)、
観応の擾乱が起きると、隠棲した直義に代わって義詮が鎌倉から京に呼ばれ、義詮に代わって
足利基氏が
鎌倉公方となって京から鎌倉に下向した。憲顕は師冬と共に基氏を補佐するが、直義方の上杉重能が
高師直の配下に暗殺されると、直義方の憲顕は師冬と拮抗するところとなり、養子の
上杉能憲と共に尊氏に敵対し、
1351年(
観応2年)には師冬を鎌倉から追放して
諏訪氏に攻めさせこれを自害に追い込み、さらに直義を鎌倉に招こうとしたため、尊氏の怒りを買って上野・越後における守護職を剥奪された。翌
1352年(正平7年)、直義が死去して観応の擾乱は終結するが、国内の諸将は憲顕から離反し、憲顕は
信濃国に追放された。このとき、剃髪して
道昌と号している。
しかし、尊氏が没し2代将軍となった
足利義詮および
鎌倉公方となった
足利基氏兄弟は、幼少時に執事として補佐した叔父の憲顕を密かに越後守護に再任し、
1362年(
貞治2年)には関東管領
畠山国清を罷免しこれに抵抗して領国の伊豆に籠った国清を討伐、翌年、憲顕を国清の後釜として鎌倉に召還しようとした。この動きを知った上野・越後守護代の
芳賀禅可(
宇都宮氏綱の重臣)は鎌倉に上る憲顕を上野で迎え撃とうとするが逆に
武蔵国苦林野で基氏の軍勢に敗退、これに口実を得た基氏軍は討伐軍を
宇都宮に差し向けるが、途中の
小山で
小山義政の仲介の下、宇都宮氏綱の弁明を入れて討伐は中止された。こうして、尊氏亡き後の幕府・鎌倉府によって代々の東国武家の畠山国清および宇都宮氏綱が務めていた関東管領職および越後・上野守護職は公式に剥奪され、新興勢力の上杉憲顕がその後釜に座り、上杉氏は代々その職に就くこととなった(
関東の政変)。